昭和四十九年十一月三十日 朝の御理解


御理解 第三節 「天地金乃神と申すことは、天地の間に氏子おっておかげを知らず、神 仏の宮寺、氏子の家屋敷、みな神の地所、そのわけ知らず、方角日柄ばかり見て無礼いたし、前々の巡り合わせで難を受けおる。この度、生神金光大神を差し向け、願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ、末々まで繁盛いたすこと、氏子ありての神、神ありての氏子、上下立つようにいたす」


 神様と人間とが共々に助かり合うて行くということを、宣言をしておられる。
 お道の信心は、どこまでも、神と人とが一緒に助かり合うて行く、いわゆる神人共栄である。神と人とが共に栄て行く、ところが人間私共の側としては、おかげの幸せになれない様な考え方、いうなら見当違い、間違った考え方。
 これはもう本当に根本的に、間違っておるところを正してあるみ教えだと思うんですけれども、私は昨夜寝ませて頂きながら、私がずぅっと若いときから、商売をさせて頂いて、その時分に特に贔屓(ひいき)にして下さった、お客さん。もう大坪さんじゃなからにゃでけん様に、贔屓にして下さった方達のことをずーっとこう思うて見て、久留米、三井郡沢山お得意さんがありました中にも、みんなそういう方達も亡くなっておられて、あの人はどうなっただろうか、この人はどうなつただろうかと思う人達を一人一人こう、思い浮かべさせて頂いて、何十年前いわゆる、その時分のいわばお得意さん。特に可愛がって下さったお得意さんに、一遍ずーっと、挨拶まわりをしょうか、挨拶まわりというのかまあ、あの時分、大変お世話になったということを、お引き立てになったということを、それこそみんな、私は酒屋ですから、酒の好きな方ばっかりですから、もう故人になっとられる方もあるけれども、霊様にお神酒の一本づつでも持って、一遍挨拶まわりをしたならば、昔お得意さんだった皆、誰れ彼が、恐らく喜んで下さるだろう。
 現在私がおかげを受けておる。事実をまあ知っとられる方もありゃ、噂で知っている方もありましょうし、そういう方達にいっぺん、挨拶まわりとでも申しましょうか、まあ懐かしくもあるし、そういう一遍神様にお許しを頂いて、おかげ頂こうかと私は思わせて頂いたんです。
 そしたらね、そういう考え方はね、仇討(あだうち)精神というですかね。仇(かたき)討ち精神、いうなら忠臣蔵の様なもの、人間、特に日本人は、例えば、恩になった人のためには、命をはめてでも、恩になった人には、命を投げ出してからでも、それに報い様とする。その一番私は、激しい心の現れが、私は仇討精神だと思う。
 浅野内匠頭の家臣達が四十七名もの人達が、命を投げうって、いわゆる主君の仇に報いようというのです。私はその事頂いてもう本当に、勿論皆さん仇討ちということがどんなにつまらない事か、ところが日本人には非常にこれが、こういう精神が受けるわけです。 特に、今ごろでもとにかく、昔からお芝居なんかで不況になったとき、もう入りが少なくなったら、忠臣蔵を出しさえすれば当ったといわれる位に、日本人の心にピッタリ来ているのですけれども、大きな意味で天地金乃神様の御心からすればです。こういう考え方やら思想は、もう大変なお粗末御無礼な考えなんです。
 昔お世話になった方、その方達になら私がです、お酒の一本ずつも持って、挨拶まわりをしたならば、確かに喜んで下さるに違いないです。まあ大坪さん御成功が出来なさったなあというて、私の噂を聞いた人達は、そういうて喜んで下さるかも知れません。
 けれどもね、そういう例えば、精神、例えばここでいつも申します様に、恩に報ゆるということは、素晴らしい事なんです。その最たるものが、天地金乃神のいわゆる、天地の大恩を悟って、天地の大恩に報ゆる行き方、それが本当の信心生活だとこういうのです。これは人と人との間においてもそうです。まあ大変にお世話になった、御恩になったという、感謝の心は良いです。
 けど私は、その辺のところの説明を、これは時間をかけて、かけなければ皆さんに納得が行かんのかも知れませんけれども、私は何とはなしにわかったです。私はそう思うたらです、そういう精神は、いわゆる仇討ち精神だと、こういう様なですね。例えば道徳的な修養から生まれて来た、道徳的なところから生まれて来た考え方と、信心に依る考え方も天地程違うんです。
 これは一つ皆さん、よう心掛けとかにゃいけんのですよね。だから場合によっては、なら人道というか、いわゆる人情と神情の使いわけです。金光様の御信心はどこまでも、神情を使うてそこから生まれて来る人情でなからなければ、人情を先に使うとです、これは成るほど、人物は素晴らしい、人からは尊敬は受けるけれども神様の御信用はつかないです。
 これはもう間違いなしにそうです。人間が立派で、人間の信用を受ける程しの人だから、神様の御信用も受けて行き相ですけれども、反対です。なぜかと言うと、必ず人間の方を先にするからです。そして、いうなら神徳を受けて、人徳を受けよと仰るから、神徳を受け、神様の徳を受けてそして後にです、人の信用を得て行くことは、素晴らしいこしです。
 人間が出来るということは、けどはじめに人間が出来た人程、信心が出来ません。そしてお徳が受けられません。いうならば、その仇討精神といった様なね、事は如何に神の気感に適わないかということです。
 恩になったからその恩に、報ゆるということだけで、あヽあの人は中々律気な人であるとか、義理人情を弁えた方だというて、いわば褒められる対照にはなりましょうけれども、神様はそんな事では喜びなさらんです。
 場合にはね不人情ではあり、場合によっては不義理な様な場合であってもです、不義理をしながら不人情と言われながらも、神様への心の使い方、いわゆる神情一筋に、おかげを頂いて参りますとです、神様の御信用が付いてです、そしてなら信心の徳を受けた人が、人非人的な事をするわけじゃない道理ですから、そしてこちらは信心をなさるから、人間も立派という様なおかげになって来なければ、本当の神徳人徳ということにはならないです。
 今日は、今のその事だけでもです、今日はね、天地金乃神と申すことは、天地の間に氏子おっておかげを知らず、天地の中に私共が、人間氏子がある。けれども天地の御恩徳を知らずというとこ、ここんところがわかったらね、今私の言うことが、まあおぼろげでもわかるです。人情は先に使うものじゃありません。まず神様ならばという心にならにゃいけませんです。
 そこで先日でしたか、誰方だったですかね、言うとられました。もういろんな事に直面すると、親先生ならここんところをどう思い、どうなさいますかと思って、次のことに当たりますとこういう、これなら間違いないです。なぜかというと私が神様神情一本で行っとるからです。人情を使わないからです。
 ここんところ親先生ならば、どうなさるだろうか、いうならば私と皆様がこうやって、日々交流をしとります。ですから親先生の心がよう分かって来る。はあこげんな時にはああしなさる。ああいう時にはこうしなさるということが、段々分かって来る。そこで、自分が今なそうとすることをです、親先生ならここんところをどうなさるだろうかと、思うてみる様な生き方は、間違いのない行き方です。
 やヽもするとそこが、自分流になり、我流になり、人情になって来るところにです。人情家とはいわれてもです、それは本当のいうならば、今日の御理解いうなら仇討精神的なね、事なのですから、それは神の気感に適わない。むしろ、この辺のところをね本当に、信心が分かって参りますとね。金光様の御信心のいよいよ素晴らしいことが、次に言うてあるところが分かるです。
 この御理解はそれこそもう金光教独特の、どういう立派な宗教と言われ大宗教と言われる。キリスト教とか仏教にもない御教えです。
 次のところがね、神仏の宮寺、氏子の家宅、皆神の地所、その道理知らず、日柄方角ばかり見て、神様のおかげ頂いとるとに、あの人のおかげを頂いてという考え方が第一間違っている。難しいですねこの辺のところ、難しいからおぼろげにでもよいから分かって下さい。御理解三節の本当のところをね。
 だから人情の強い人はここは分からんです。これは誰の地所、これは私の地所、ということは実はないんです。皆神の地所です。それこそ神社仏閣の、いうならこれは天満宮様の境内、これはどこどこお寺さんの敷地だというてもです。それは天満宮様の、いわば敷地じゃないです。皆神の地所なんです。この考え方に立脚しなければ、本当の信心は分からない、という程しに、例えば私共の考え方が段々間違っとる。その間違いがです、方角日柄ばかり見て、無礼いたし前々のめぐり合わせで難を受けおる。そういう考え方の間違いがです、日柄がよいの悪いの、方角がよいの悪いの、これなんかもう人間の考え違いです。
 これなんかは天地に対する大変な御無礼です。それは自分のものでもないものを自分のものと思う以上に悪いことです。天地の間にいろんな働きがあっている。その働きにいちいちけちをつける様な生き方。今日がよい日で、明日が悪か日、そんなことのあるはずがない。みんな良い日なんです。いつも天地の親神様の働きの中にある事ばかりなのです。 だからね、こういうところがスキッと改められるところから、もう難儀のもとを作らんという程しに素晴らしい事です。ここへんのところは、皆さんが様々な難儀を持っておるならです、そういう天地に対するところの、天地の間に住まわせて頂きながらです、天地唯人と申します。天と地の中に人がある。その天地のことわけ、道理もわからずにです。自分勝手なものヽ見方、考え方がです、前々の巡りで難を受けておるとおっしゃる。
 ですから、その難儀の本というものをです。天地に対する御無礼だから、そこのところのお詫びをする心になって来ると、お詫びが許される。そこに、そこにまた難儀から立ち直れるおかげもまた頂けるのです。
 今日は、天地の間に氏子おっておかげを知らずということを、大体強調しながら聞いて頂いた。一寸難しい感じですね。天地の間に氏子おっておかげを知らず。自分のものでもないものを自分のものと思うたり、日柄がよいの悪いの、あちらの方角がよいの悪いのといった様なです。天地に対する「スミ、カネ」を打つ様な考え方、これが大変な間違い、ここんところに気付き、わからねば本当の有り難さが分からないです。
 私は今日御神前でね、こういう事を頂いた。神心信と頂いた。そしてこの御理解第三節を頂いて、いろいろに思わせて頂く事であります。
 皆さん今日は、私は皆さんに聞いてもらいます事がね、あのこれは日本人だけの事じゃありませんでしょうけれども、仇討精神ということが、或る意味あいにおいては、人間心に於いてつかう、恩に報ゆる心、という様な意味ですけれども、この辺のところを今日は本当に、分かることは中々でしょうけれども、おぼろげでも分かってね、私共の行き方が如何に間違っておったかと。または、いらんことに、心を使うたり金を使うたり、しよるのじゃないだろうか。
 例えばもう、いよいよこれは、年末になって参りますとね。あちらにも、こちらにも、お歳暮といったものがありますよ、一年中お世話になったところに、お歳暮を持って御挨拶に行くでしょう。こういう例えば行き方なんかも、これは本当いうたら間違いなんです。果してお歳暮を持って行くだけのことを、神様へ持って行かねばいかんです。
 いやそげな事じゃない。例えば人間に、一つのものを持って行くなら、神様には十持って行っても足らんです。こういうところが分かると素晴らしいです。そしてですね、神様の御許しを頂いて、お詫びをさして頂いてです。対人間関係の場合の中元とか、お歳暮とか言った様なものは、さして頂く程しに厳密になさると、間違いのない生き方に段々なつて来るのです。
 天地の、天地の、だから皆さんが、お歳暮ならお歳暮として、教会に持って見えますでしょう。それはどういう事になるかというと、天地に還元することになるです。天地にお還しすることになるのです。だから間違いはないです。人間に持って行った分は、またそのお返しが来るだけでしょう、酒一本持って行くと又向こうから酒一本に値するものを、向こうから贈られるそれだけの事でしょう。天地に対する還元というのは、それが十倍になるやら百倍になるやらわからん程しに素晴らしいことです。その辺のところをね、スキッとしたいですね。
 金光様の御信心さして頂くものは、ほんの神様には、チョコット、人のときにはこう沢山、御本部参拝する時でもそうです。お土産は何千円かとか買うてから、お初穂はチョコットばっかり、もうこういう事ではもう本当におかげ受けられん筈です。ね、根本的に間違っとる。今日の御理解三節はね、そういうところを一つ分かって頂きたい。
 今日私が御神前で『神心信』と頂いた。神の心の信と頂いたがです。結局神を信じ、自らを信ずるという事です。自分自身の心を信じれる人になるということです。この意味は、そこでです。天地の間におって、氏子おかげを知らずと仰る。天地の間に居る私共がです、まず天地の大恩を知ることが先決だということです。
 そしてです今までの思い違い考え方、考え違いを一掃して、義理人情的な考え方を一ぺん捨て、神情一筋で神様に打向うて、こういうとき親先生ならどうなさるだろうかといった様な、生き方を日に日に身につけさせて頂いて、そして神の信用を受けてです、神の徳を受けてそして人とのつきあいであり、交わりであるということになって参りますと、間違いのない行き方になって参ります。
 人間の世界に住んでおるから、人間同志の係わり合いということも大事です。けれども信心をさして頂くなら、まず神様との関わり合いということを先にして、そして後に人間との関わり合いというものが出来ねばいけないということ。そこに私が今日頂いとる、神心信ということの意味が少し分かって来る。
 神様から信用される程しの心というのは、結局自らの心を自らが拝める様な心なんです。信心さして頂いて、日々の改まりが第一だ、本心の玉を研くのだと言われる。
 昨日は敬信会で、お話をさして頂いた事でした。どなたか沢山吊るし柿を持って来とんなさいました。これは稲数の高山さんが発表しとられましたが、親先生私がやんがて三十年近くもなりますでしょうか、椛目で人が助かんなさるという話を聞いて、息子が粟粒結核で、医者はもう難しいと言われたときに、初めて当時の椛目のお広前にお引き寄せ頂いたら、沢山の人がお話を頂きござった。
 そしたら親先生が、私を手招きして、高山さんということは私は知りませんからこちらにお出なさいというて、息子の病気のおかげを頂きたいなら、これからもう何も彼にも、お礼を言う心を忘れなさるな。例えば、一本のマッチをすらせてもらう、あヽおかげでと、そこまでは言うけれども、そのマッチの使った後の、いわゆるマッチの軸ですね、棒、マッチの軸にでも、押し頂く心にならなければいけません。
 金光様の御信心するなら、それがね、今でもありありと頭の中に残っておって、もうそれからというものはです。もうこの頃はちっとはくせになったごたる感じもしますけども下駄も拝ましてもらいます。勿論寝ましてもらうときは寝具も枕も別々に拝みます。それこそマッチのすった後のあの軸にすら、親先生は礼を言えと言われるからもうその事に徹底させて頂いて、さしもの粟粒結核は治ったです。
 そして今日まで、まあとぼとぼながら信心が続かせて頂いておるが、もし私がいつも思うことは、もしあのときにあヽいう御理解を頂かず、息子が助かって居らず、信心をしていなかったなら、今頃はどげな鬼婆になっとるじゃろうかと思いますと、こう言うのです。成るほど根性がしっかりした方なんです。
 信心がある者と無い者のちがいをです、二十数年経てみてはじめて、わからせて頂く。いうならば、高山さん丁度この吊るし柿の様なもの、お互いがもし信心がなかったら、渋柿が段々に熟れて行く、そして熟柿になる。そすと烏が飛んで来て、烏の餌食にどもなって、いつ落ちたやらわからんごとして、果てて行く。そういうことになっただろう、ところが信心させて頂くものはです、成るほど自分の渋さという事が分かって、それを自分の改まったり、研いたり、皮をむいたり、吊り下げたりして、御陽光のおかげを頂いて段々渋がぬけて行く自分が有り難い。
 自分の今まで知らなかった事がわからせて貰うてです。本当にマッチの軸一本にでもお礼を言わなければならんことがわからせて頂いてです。自分という者の渋が抜けて行っているうちにです。あの甘い吊るし柿が出来て、しかもあの吊るし柿というものは、いつまで置いても悪くならないという程しのもの、これが信心の徳なんだ。
 丁度昨日は二十名余りの方達が居りましたがです。あなた方信心さして頂いて、おかげ頂いて、本当にこれが極楽じゃろうと、昨日、その皆さんが言われます。
 久留米の佐田のおばあちゃんが、隣の方と話しよんなさいました。本当に有り難い御理解を頂いて、皆で持ち寄った、お饅頭やら、お漬物やらをです、頂きながら本当にこういう雰囲気こそが極楽というもんじゃろうかというて、佐田のおばあちゃんが言いよんなさいましたのを横で聞かせてもらうて、そうですよ、これが極楽ですよと。
 これと同じ、よりもっと有り難い心の状態が家庭にも表わされるというところに信心があるのです。教会だけが極楽じゃありません。お茶を飲んどるときだけ、美味しいものを食べとるときだけが極楽じゃありません。場合によっては、自分の嫌なこともありゃ、苦い辛いということもあろうけれども、そういう中にも信心の有り難さをわからせて頂くことが、極楽ですよと言うて、お話しをさして頂いたことですけれども、もし信心がなかったら、それこそ、その吊るし柿と、いうなら熟しの柿との相違が出来て来るです。
 自分の皮をむこうともしない、修行しようとも思わない吊り下げられておるいうなら修行です。そのうちに渋が抜けて行く、そういう例えば、自分の心が甘くなって行く、いうならば自分の心が、甘露の様な有り難い有り難いものになって行く、そこにです、われと我が心が拝みたい、本当に有り難い勿体ないという心の状態がです。信心さして頂くもんじゃなからねば、味わえない事だと私はおもうです。
 ですからまずはです、天地の間に住む人間はと仰る。天地の間に住む人間は、天地の間に氏子おっておかげを知らずと仰る。そのおかげを話して聞かせて頂いてです。この水一掬いも天地の親神様のお恵みのものですよ、この米一粒も天地の親神様の御恩徳が籠っとりますよと、聞いただけでは分からない、有り難くなれまい。押し頂く心が生まれて来ないけれども、自分の心が自分で段々拝めれる様になって来るときに、初めて天地の御恩徳のものを御恩徳のものとして、おし頂く事が出来る。そして天地に対するところの御礼が出来るわけです。
 だから天地の間に住む、いうなら人間氏子がまず自分自身が、清められ、改められそこから、初めてお話しを頂き、天地の大恩がわからしてもらい、今まで自分のものでもないものを自分のものの様に思うておった。御無礼お粗末、自分の勝手なことをしておったことの、お詫びをさして頂く様な、心の状態になって来るときです。
 そういう様な恩知らずの行き方が、前々のめぐりで難を受けおる。お互いが今感じておる難儀というものはそういうことから、人間の難儀というものは出来ておるのだから、そこのところの理解を申して聞かせと仰る。
 そこんところの理解をよく聞かせて頂いて、願う氏子におかげを授けということは、わかっては居ないけれども、おかげを与えて神様をわからせて、そして次に私が聞いて頂く様な大変難しいことなんです。今日の御理解は、そういうところ皆さんの心にスキッと、頂ける様にならせて頂いてです。
 はじめて私共が、本当のこれが極楽だろうかという、おかげを頂いて、そこから神も助かり氏子も立ち行く、いうなら合楽示現活動です。神様と人間とが、一緒に喜び合える様なおかげをです、そこから顕現して行かれる、いわゆる示現してゆく訳です。
 氏子上下立つ様に致す。氏子も神様も一緒に栄えて行けれる様な道を、教祖金光大神は、私共に教えて下さるわけであります。
 今日の御理解がストッと人に話して行ける程しに、わかられたら尚更ら有り難い。お話しは出来んけれども何とはなしに、わかったというだけでよいです。今日の御理解は、そしてその何とはなしにわかって、こそ今までの自分の行き方というもの、非常に間違っとることに気付くです。
 例えば、進物もの一ちょでもそうです。あげな進物の配り方は間違うとったことがわかるです。あヽ昔あの人からお世話になっとったから、お酒の一本も持って行って御挨拶の一つも行こうかと、実をいうたらこれは大変よかことのこと思うとった。
 そりゃ間違いです。それはね、それは仇討ち精神なんです。厳密に言うと、それではいけないです。だからまずは神様の御信用を受けるということ、だから場合には本当あの人は、人非人と言われる様なことがあるかも知れん。私共そう言われて来た。
 当時の椛目の大坪は人非人だ、とまで言われた時代があるです。なぜかと言うとそれこそ、神様の仰せには背かれないという一路で行っとりましたから、だから当時私を人非人と言うとった人でも、今はあヽやっぱり大坪さんの行き方が本当じゃったと思うて頂いとる事だろうと思うです。
 だからまず神様の、御信用を受けることが先です。神情を使う、神の心を使うことが先であって、人情はその後である。というて人情を使うちゃならんと言うことではないけれども、神様の方をまず先にしなければ、いけないそしてです。今日いう、こげんとき親先生なら、どうなさるだろうかと一旦思うてみてです。それこそ他所にやり過ぎたり、配り過ぎたりしよらんか、何にもならん。神様にかえって御無礼になりよること、人は喜ぶかも知れない。そういうことで人に喜ばせる様なことではいかん。神情を先に頂いて、そして後に人に喜んで頂ける行き方があるということなんです。
 大体御理解三節は、そういう大変な事が内容として、説いてあります。
 今日私が頂く神心信、神様も拝むなら、自分の心も拝めれる、心になることを先決にせねばいけません。これは人間心の強い人はね、お徳が受けられないと昔から言われとります。
 あヽもう行き届いて行き届いて、とにかく人間心のいうならば、親切心の強い様に見えますけれども、それは本当の意味に於いての、親切心ではありません。神様の心が分かっての、切なる心であって親切です。
 だから私共は、いっぺん非人情とかね、人非人と言われてもです。いっぺん人情をかなぐり捨てて、そして今までの思い違い考え違いを一掃して、信心を頂き、神の信用を受けて、そこからあの人は、本当に仏様の様な人じゃ、神様の様な人じゃと、言われる様なおかげを頂くことがです。そういう人間氏子がです、天と地の間にいっぱい出来ることになってはじめて天地が栄える事になってくる。いわゆる神人共栄です。
 だから段々おかげ頂いて、自分のおかげを頂いとる。それこそ佐田のおばあちゃんじゃないけれども、これがそれこそ極楽じゃろうかという心を開かせて頂いて、その心を以て、示現活動に参画さしてもらう、預からして頂くというおかげを頂いて行くことにならなければならない。今の、合楽ではここのところばかりを、皆さんに聞いて頂いている様な日々てずね。
 どうぞ、今日の御理解のところをですね。どうぞお互いの考え違いのところを、根本的に一つ分からせて頂いて、本気で本当な生き方、いわゆる本当に、天地の道理に、即応した行き方にならして頂かねばならん。
 そこにめぐりが断たれる。難儀がなくなる。ほどしのおかげにもなって来るわけですからね。どうぞ。